2018年04月04日
(再掲)イマジン
『最悪の場合でも、俺たちには妄想があるから』
リリー・フランキーのなんか小説の一節
「人はさまざまな手段で現実に抵抗する。大抵は金で。幸運な者は美や力で。何も持たない者は妄想で現実に抵抗する。」
これもとある小説の一節。
とはいえ妄想てしんどいものだ。
いや、正確には妄想にしか逃げ場のない現実てしんどいものだ。
人は誰でも自分の中に自分らしさの核のようなものを持っていて、それに近づこうと、近づきたいと、日々生きてるもんだ。近づければ近づけただけ楽になれるんだけれど、実際なかなかうまくいかない。
そしてその「自分がこうありたい姿」からかけ離れた自分を見ることは辛い。しんどい。
かといって、どんだけしんどくたって、現実からまるまる逃げ出すことはなかなか難しいもんだ。腹も減るし、のども渇く。家賃も電気代もかかる。気が付きゃ歳も取っている。他人は否応なしに自分に評価をつけてくるし、そのレッテルをはねのけられるほどの確信だなんて持てない。
キセキを信じられるほど世間知らずでもなければ現実を理想に近づけられるほど強くもない。
『最悪の場合でも、俺たちには妄想があるから』
って、言ってもね。まだまだ少しでも逃げられるなら最悪じゃないよ。
本当に「最悪の場合」なのは、妄想を逃げ場に出来ないこと、それと妄想を自分で管理出来ないこと。
前者は現実の痛みをもろにひっかぶるし、後者は妄想に振り回される。
例えば鬱病にしろ、統合失調症にしろ、楽しい妄想とは無縁な状態だ。
ジョン・レノンがイマジンで
「想像してごらん、この世には天国も地獄もないって」
と歌っているけれど、天国や地獄に思いを馳せることもできず、今この場がまぎれもなく苦しい。
そんな人になんと声をかけたらいいのだろう。
そんな人のために何ができるだろう。
博愛とか職責とかだけでできることなんてそんなに多くはないし、
かける言葉に正解は、きっと、ない。
けれどせめて、味方でいよう。
そう思う。
リリー・フランキーのなんか小説の一節
「人はさまざまな手段で現実に抵抗する。大抵は金で。幸運な者は美や力で。何も持たない者は妄想で現実に抵抗する。」
これもとある小説の一節。
とはいえ妄想てしんどいものだ。
いや、正確には妄想にしか逃げ場のない現実てしんどいものだ。
人は誰でも自分の中に自分らしさの核のようなものを持っていて、それに近づこうと、近づきたいと、日々生きてるもんだ。近づければ近づけただけ楽になれるんだけれど、実際なかなかうまくいかない。
そしてその「自分がこうありたい姿」からかけ離れた自分を見ることは辛い。しんどい。
かといって、どんだけしんどくたって、現実からまるまる逃げ出すことはなかなか難しいもんだ。腹も減るし、のども渇く。家賃も電気代もかかる。気が付きゃ歳も取っている。他人は否応なしに自分に評価をつけてくるし、そのレッテルをはねのけられるほどの確信だなんて持てない。
キセキを信じられるほど世間知らずでもなければ現実を理想に近づけられるほど強くもない。
『最悪の場合でも、俺たちには妄想があるから』
って、言ってもね。まだまだ少しでも逃げられるなら最悪じゃないよ。
本当に「最悪の場合」なのは、妄想を逃げ場に出来ないこと、それと妄想を自分で管理出来ないこと。
前者は現実の痛みをもろにひっかぶるし、後者は妄想に振り回される。
例えば鬱病にしろ、統合失調症にしろ、楽しい妄想とは無縁な状態だ。
ジョン・レノンがイマジンで
「想像してごらん、この世には天国も地獄もないって」
と歌っているけれど、天国や地獄に思いを馳せることもできず、今この場がまぎれもなく苦しい。
そんな人になんと声をかけたらいいのだろう。
そんな人のために何ができるだろう。
博愛とか職責とかだけでできることなんてそんなに多くはないし、
かける言葉に正解は、きっと、ない。
けれどせめて、味方でいよう。
そう思う。