2020年03月20日
正常性バイアス
「正常性バイアス」別名平和ボケ
人は事実ではなく経験から判断をしてしまう。
そのため未経験の大きなトラブルが起きている時に、そのリスクを小さく見積もって大丈夫だと思ってしまうことを言います。
コロナが猛威をふるっている欧州の様子を見るとそんな言葉を思い出します。
兵庫、東京、あたりで感染が広がっている気配がします。
杞憂に終わればいいのですが…
人は事実ではなく経験から判断をしてしまう。
そのため未経験の大きなトラブルが起きている時に、そのリスクを小さく見積もって大丈夫だと思ってしまうことを言います。
コロナが猛威をふるっている欧州の様子を見るとそんな言葉を思い出します。
兵庫、東京、あたりで感染が広がっている気配がします。
杞憂に終わればいいのですが…
2020年02月25日
誇り
「SMAPの一員であったことを誇りに思ってますか?」
「もちろん(下から)見栄、プライド、誇り、と順番をつけるなら、(一番上の)誇りでしかないかな。見栄でもプライドでもない。ちゃんと胸を張って『SMAPの一員でした』と言えます」
SMAPの中居くんがジャニーズを退所することになり、受けた質問とその答え。
見栄→プライド→誇り、って、上にいくほど「他人にどう思われようと」という視点が強くなる言葉だと思う。
「見栄」はほぼ全て「他人にどう思われるか?」からできていて、他人に良く思われたいから張ってしまうもの
「プライド」は自分では良いと思っているけれど、他人にどう思われているかが気になっている状態
「誇り」は他人がどう思っていようと自分で自分を認めることができている状態
誇り高く、胸を張って生きることは、自分らしく生きていくためにきっと何よりも大切で、
金を無くしても何も失わない
勇気を無くせば多くを失う
誇りを無くせば全てを失う
というイスラエルの諺を思い出した。
自分自身も胸を張って、自分の周りの大切な人達にも
「大丈夫だよ。胸張って」
と、伝えていけるようにしたい。
「もちろん(下から)見栄、プライド、誇り、と順番をつけるなら、(一番上の)誇りでしかないかな。見栄でもプライドでもない。ちゃんと胸を張って『SMAPの一員でした』と言えます」
SMAPの中居くんがジャニーズを退所することになり、受けた質問とその答え。
見栄→プライド→誇り、って、上にいくほど「他人にどう思われようと」という視点が強くなる言葉だと思う。
「見栄」はほぼ全て「他人にどう思われるか?」からできていて、他人に良く思われたいから張ってしまうもの
「プライド」は自分では良いと思っているけれど、他人にどう思われているかが気になっている状態
「誇り」は他人がどう思っていようと自分で自分を認めることができている状態
誇り高く、胸を張って生きることは、自分らしく生きていくためにきっと何よりも大切で、
金を無くしても何も失わない
勇気を無くせば多くを失う
誇りを無くせば全てを失う
というイスラエルの諺を思い出した。
自分自身も胸を張って、自分の周りの大切な人達にも
「大丈夫だよ。胸張って」
と、伝えていけるようにしたい。
2020年02月14日
与えて求めず
与えて求めず 与えられて忘れず
昨日初めて聞いた言葉なのだけれど、凛々しさと深い人間性への信頼を併せ持っていて、とてもこころに響いたのでメモ。
義理堅いなぁ、と思う。
相手を個として尊重できないところからは出てこない言葉だとも思う。
与えて求めず
自分の周りの小さな世界だけの話ではない。
人のために何かをすることは、支える力ある者の責務のようなもので、心の芯から自然にできなければいけないよ、と。
「してあげたのに」とか、まして「してやったのに」なんて気持ちは自分の人間性を否定するようなものだ。
与えられて忘れず
与えられてそれをありがたいと思うことは「感謝」
感謝はもちろん大切なことなのだけれど、それだけで終わってはいけない
本当に大切なのはその気持ちを忘れないこと。
その有難さに襟を正し、その与えられた恩義に応える姿勢を忘れずに生きていくこと。
そんな意味に感じた。
自分にとっても大切な言葉になった。
この恩を抱えていきたいな、と思う。
昨日初めて聞いた言葉なのだけれど、凛々しさと深い人間性への信頼を併せ持っていて、とてもこころに響いたのでメモ。
義理堅いなぁ、と思う。
相手を個として尊重できないところからは出てこない言葉だとも思う。
与えて求めず
自分の周りの小さな世界だけの話ではない。
人のために何かをすることは、支える力ある者の責務のようなもので、心の芯から自然にできなければいけないよ、と。
「してあげたのに」とか、まして「してやったのに」なんて気持ちは自分の人間性を否定するようなものだ。
与えられて忘れず
与えられてそれをありがたいと思うことは「感謝」
感謝はもちろん大切なことなのだけれど、それだけで終わってはいけない
本当に大切なのはその気持ちを忘れないこと。
その有難さに襟を正し、その与えられた恩義に応える姿勢を忘れずに生きていくこと。
そんな意味に感じた。
自分にとっても大切な言葉になった。
この恩を抱えていきたいな、と思う。
2020年01月24日
誰がために曲は鳴る
クソみたいな音楽ばっかりだ
巷にあぶれる耳あたりの良い曲を総じてそんなことを言う人がいた。
(まぁ確かにクソみたいだよなー)
自分もそう思っていた。
そんな考え方が変わったのは、以前尊敬する上司がカーラジオから流れるモーニング娘。の曲を聞いて言った一言だった。
「ラブマシーン。好きなんだよね。この曲。なんか元気が出ていいよね。」
勝手なイメージで、かっこいい上司はかっこいい曲が好きなものだと思っていた。
勝手なイメージで、モーニング娘。はドルオタ向けの曲だと思っていた。
音楽は、現実と哲学の間にあいた昏い穴の中で蠢いている人間のためにだけあるわけじゃない
凄惨で陰鬱なものに囲まれている日々の中で、同じ匂いを嗅ぎたい人間のためだけにあるわけじゃない。
言ってしまえばロックンロールだけが音楽じゃないのだ。
幸せな人にも、国語の苦手な人にも、考えることをやめた人にだって、音楽は必要とされていて
誰かがけなした「クソみたいな音楽」に救われる瞬間もあるのだ。
考えることをやめていたって、感じることまでやめられるわけではないのだ。
クソみたいだった音楽を受け入れるのは、世の中には色々な人がいるのだということを受け入れていく過程に似ていて、
それはロックではないのかもしれないけれど、どれだけありふれていたり、あたりまえだったりしても、
それを軽んじていいわけではないのだと
ちっぽけな自分に合わなかったっていうだけで、人ひとりが癒されるもの
それが無価値になってしまうなんてことは、決してないのだと。
そう知って、前よりもありふれた曲が好きになった。
前よりもいろんな人を受け入れられるようになった。
巷にあぶれる耳あたりの良い曲を総じてそんなことを言う人がいた。
(まぁ確かにクソみたいだよなー)
自分もそう思っていた。
そんな考え方が変わったのは、以前尊敬する上司がカーラジオから流れるモーニング娘。の曲を聞いて言った一言だった。
「ラブマシーン。好きなんだよね。この曲。なんか元気が出ていいよね。」
勝手なイメージで、かっこいい上司はかっこいい曲が好きなものだと思っていた。
勝手なイメージで、モーニング娘。はドルオタ向けの曲だと思っていた。
音楽は、現実と哲学の間にあいた昏い穴の中で蠢いている人間のためにだけあるわけじゃない
凄惨で陰鬱なものに囲まれている日々の中で、同じ匂いを嗅ぎたい人間のためだけにあるわけじゃない。
言ってしまえばロックンロールだけが音楽じゃないのだ。
幸せな人にも、国語の苦手な人にも、考えることをやめた人にだって、音楽は必要とされていて
誰かがけなした「クソみたいな音楽」に救われる瞬間もあるのだ。
考えることをやめていたって、感じることまでやめられるわけではないのだ。
クソみたいだった音楽を受け入れるのは、世の中には色々な人がいるのだということを受け入れていく過程に似ていて、
それはロックではないのかもしれないけれど、どれだけありふれていたり、あたりまえだったりしても、
それを軽んじていいわけではないのだと
ちっぽけな自分に合わなかったっていうだけで、人ひとりが癒されるもの
それが無価値になってしまうなんてことは、決してないのだと。
そう知って、前よりもありふれた曲が好きになった。
前よりもいろんな人を受け入れられるようになった。
2019年10月16日
就労支援ってご存知ですか?
就労継続支援B型の募集文を書きました。
手を停めて見ていただきありがとうございます。
知立市内を中心に就労継続支援という福祉施設を運営しています、株式会社こもれびと申します。
働くための練習をしながらお金も稼ぐことができる、それが就労継続支援という施設です。
自宅やお近くまでの無料送迎付き、お昼ご飯も食べられます。
家に引きこもっていて外に出られない方
体がだるくてなかなか起き上がれない方
障がいがあって働き先が見つからない方
今すぐ仕事を始めることに不安が強い方 ………
生活のスペースを少しだけ広げてみませんか?
ご家族、ご友人の方からの相談ももちろん歓迎です。
まずはご見学からでも。
こもれび矢内(やない)まで、ご連絡をお待ちしております。
TEL0566-84-5595
FAX0566-84-5596
手を停めて見ていただきありがとうございます。
知立市内を中心に就労継続支援という福祉施設を運営しています、株式会社こもれびと申します。
働くための練習をしながらお金も稼ぐことができる、それが就労継続支援という施設です。
自宅やお近くまでの無料送迎付き、お昼ご飯も食べられます。
家に引きこもっていて外に出られない方
体がだるくてなかなか起き上がれない方
障がいがあって働き先が見つからない方
今すぐ仕事を始めることに不安が強い方 ………
生活のスペースを少しだけ広げてみませんか?
ご家族、ご友人の方からの相談ももちろん歓迎です。
まずはご見学からでも。
こもれび矢内(やない)まで、ご連絡をお待ちしております。
TEL0566-84-5595
FAX0566-84-5596
2019年05月20日
ミマツ閉店
年号も新たになった令和元年5月19日、ミマツ知立店が閉店した。
55年間知立市長田に店を構え、地域の皆様に驚きと感動を与え続けてきたスーパーミマツ知立店が閉店した。
中町店は残り、今後も地域の皆様と共に進んでいくのだろうけれど、淋しい。
とてもさみしい。
栄枯盛衰は世の常といえど、当たり前だとか、よくあることだからといって、大切にしていたものがなくなってしまうことの淋しさが紛れるものじゃない。
ミマツ知立店はなくなってしまったけれど、「ミマツ大好き」はずっと、「ミマツ大好き」のままだ。
ビートルズだって、マイケルジャクソンだって、もうずいぶん前にいなくなったのだけれど、彼らの音楽を好きな人たちがいて、そんな人たちが居る限り彼らはちっとも色褪せないのだ。
ミマツ知立店だって、閉店してしまったのだけれど、僕たちがミマツのことを好きな気持ちを忘れずにいる限り、きっとミマツは色褪せないのだろう。
さらば、ミマツ。これからは中町でよろしく。
2019年03月20日
まずは絶望
朝テレビをつけてたら、自治体が公開している破産者の情報をまとめたサイトが話題を呼びすぎて閉鎖になったというニュースをやっていた。
そのニュース自体はそれほど興味がなかったのだけれど、そこに出ていた公開されてしまってた男性が知人に「サイトに乗ってるけれど、これって君のこと?」と言われた時の話をしていて、その時の気持ちについて「まずは絶望しました」って言ってたんですね。
「まずは絶望」
「とりあえずビール」とでも言うかのような軽さでくりだされる「まずは絶望」というワードにおかしみを感じた後、改めて考えてもなかなか良いフレーズだと思ったのです。
「どうあがいても絶望」でも「とうとう絶望」でもなく、「まずは絶望」
それは最終的に絶望のまま終わっていたり、絶望が続いているわけではなく、その絶望には続きがあった。ということであり、
逆説的になりますが、それはもう「希望」なのではないのか、と思うのです。
嫌なことも、疲れ果ててしまうことも、絶望した!と感じてしまう時だってあるのだけれど、
それでも「とりあえず明日はくるんだ」と思って今日も頑張りたいと思います。
2019年03月15日
配慮
「気を使われると本心が見えにくくなる」
それもまた真理なのだけれど、本心からであろうと仕事だからだろうとも、配慮があった方が快適だと思うのです。
視野障がいがある方は、足元が見えなかったりするのであらかじめ足元に荷物を置かないようにする。
片耳に補聴器をつけている人には話しかける時にそちら側からゆっくりと、低めの声で話しかけるようにする。
麻痺のある方が車に乗り降りする時には転倒しそうになった時に支えられるよう患側に補助に立つ。
障がいを抱えて生活をしていく、ということは、往々にしてとてもとても不便なわけで、
周囲のちょっとした気遣いで、その不便さが軽くなるのならそれは素敵なことだと思うのです。
もちろん気遣われることが「当たり前だ」なんて感じるようになってしまっては、障がいがあろうとなかろうと疑問符がついてしまうのですが、気遣い、気遣われ、それをうれしく思う。
それが歩み寄る、ということなのかな、と思います。
それもまた真理なのだけれど、本心からであろうと仕事だからだろうとも、配慮があった方が快適だと思うのです。
視野障がいがある方は、足元が見えなかったりするのであらかじめ足元に荷物を置かないようにする。
片耳に補聴器をつけている人には話しかける時にそちら側からゆっくりと、低めの声で話しかけるようにする。
麻痺のある方が車に乗り降りする時には転倒しそうになった時に支えられるよう患側に補助に立つ。
障がいを抱えて生活をしていく、ということは、往々にしてとてもとても不便なわけで、
周囲のちょっとした気遣いで、その不便さが軽くなるのならそれは素敵なことだと思うのです。
もちろん気遣われることが「当たり前だ」なんて感じるようになってしまっては、障がいがあろうとなかろうと疑問符がついてしまうのですが、気遣い、気遣われ、それをうれしく思う。
それが歩み寄る、ということなのかな、と思います。
2019年02月21日
反省文
「正しいこと」はひとつではない。
その人その人それぞれに信じる「正しさ」があって、「やり方」、「考え方」があって、必ずしも「一番効率的な答え」が選ばれるわけではない。
そんな中で「声の大きい人」の「正しさ」を否定し、自分の「正しさ」を通したいと思うなら、根回しも必要であり、立場も必要であり、あの手この手が必要となる。
そんな時、希望を通す手段は「戦い」ばかりではない。
むしろ「戦い」は割に合わない方法だとも思う。
倉橋ヨエコの「夜な夜な夜な」という曲の歌詞に
『傷つけるより傷つく方がいい って弱虫かな』
『喧嘩するより謝る方がいい ってものぐさかな』
という歌詞があるが、ただただそのままでいてしまえば痛みを受け入れざるを得ない場面というのはどうにもあって
痛みも争うことも嫌ならば、別の手段を考えなくてはならない。
取り入ったり、手を回したり、本音と建前を使い分けたり、逃げ出すことまでも含めて。
変えること、変わること、そしてそのために、身を汚すことをためらわないようにしたい。
その人その人それぞれに信じる「正しさ」があって、「やり方」、「考え方」があって、必ずしも「一番効率的な答え」が選ばれるわけではない。
そんな中で「声の大きい人」の「正しさ」を否定し、自分の「正しさ」を通したいと思うなら、根回しも必要であり、立場も必要であり、あの手この手が必要となる。
そんな時、希望を通す手段は「戦い」ばかりではない。
むしろ「戦い」は割に合わない方法だとも思う。
倉橋ヨエコの「夜な夜な夜な」という曲の歌詞に
『傷つけるより傷つく方がいい って弱虫かな』
『喧嘩するより謝る方がいい ってものぐさかな』
という歌詞があるが、ただただそのままでいてしまえば痛みを受け入れざるを得ない場面というのはどうにもあって
痛みも争うことも嫌ならば、別の手段を考えなくてはならない。
取り入ったり、手を回したり、本音と建前を使い分けたり、逃げ出すことまでも含めて。
変えること、変わること、そしてそのために、身を汚すことをためらわないようにしたい。
2018年06月14日
教養
東京大学教養学部長 石井洋二郎氏の卒業式の式辞があまりに素晴らしかったのでメモ兼ねて全文アップ。
-----------------------
皆さん、本日はご卒業おめでとうございます。
また、ご列席のご家族の皆様方にも、心よりお祝い申し上げます。今年度の教養学部卒業生は175名で、そのうち女性は50名、留学生が1名です。
全学の式典はすでに午前中、改装されたばかりの安田講堂で挙行されましたので、ここでは教養学部として、あらためて皆さんとともにこの日を慶びたいと思います。
東京大学の卒業式といえば、もう半世紀も前の話になりますが、東京オリンピックが開催された年である1964年の3月、当時の総長であった経済学者の大河内一男先生が語ったとされる有名な言葉が思い出されます。曰く、「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」。
当時、私はちょうど中学校にあがる年頃でしたが、この言葉は新聞やテレビでかなり大きく報道されましたので、鮮明に記憶に残っております。また、子供心に、さすが東大の総長ともなると気の利いた名言を残すものだと、感心したこともなんとなく覚えております。皆さんの中にも、どこかでこの言葉を耳にしたことのある人は少なくないでしょう。
ところが、これはある機会に一度お話ししたことがあるのですけれども、じつはこの発言をめぐっては、いろいろな間違いや誤解が積み重なっているんですね。
まず第一の間違いは、「大河内総長は」という主語にあります。というのも、これは大河内先生自身が考えついた言葉ではなく、19世紀イギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルの『功利主義論』という論文からの借用だからです。
東大の総長ともあろうものが、他人の文章を無断で剽窃したのか、と思われるかもしれませんが、もちろんそういうわけではありません。式辞の原稿を見てみますと、そこにはちゃんと、「昔J・S・ミルは『肥った豚になるよりは痩せたソクラテスになりたい』と言ったことがあります」と書かれています。「なれ」という命令ではなく「なりたい」という願望になっている点が少し違っていますが、それはともかく、ここでははっきりJ・S・ミルの名前が挙げられていますから、これは作法にのっとった正当な「引用」です。ところが、マスコミはまるでこれが大河内総長自身の言葉であるかのように報道してしまった。そして、世間もそれを信じ込んでそのまま語り継いできたというのが、実情です。
次に第二の間違いですが、これはもっと内容に関わることです。じつは、ジョン・スチュアート・ミル自身は「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」とも「なりたい」とも、全然言っていないのですね。さきほど題名を挙げた『功利主義論』の日本語訳を見てみますと、こう書いてあります。
満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。
大河内総長の言葉とはだいぶ違いますね。ちなみに、英語の原文はこうなっています。
It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.
この原文を見ると、どうやらさきほど引用した日本語訳は正確なようですから、大河内総長のほうがこれをまったく別の文章に改変してしまったとしか考えられません。たぶん漠然と記憶に残っていた言葉を、自分の言いたいことに合わせて適当にアレンジしたのでしょう。その結果、「満足した豚」は食べたいものを食べたいだけ食べるということで「肥った豚」になり、「不満足なソクラテス」は食べたいものにも安易に手を出さないということで「痩せたソクラテス」になったものと推測されます。しかしこれでは原文とまったく違ったニュアンスになりますから、ミルが語った言葉として紹介するのはさすがに問題なのではないか。下手をすると、これは「資料の恣意的な改竄」と言われても仕方がないケースです。
ところが、間違いはこれだけではないんですね。じつは、大河内総長は卒業式ではこの部分を読み飛ばしてしまって、実際には言っていないのだそうです。原稿には確かに書き込まれていたのだけれども、あとで自分の記憶違いに気づいて意図的に落としたのか、あるいは単にうっかりしただけなのか、とにかく本番では省略してしまった。ところがもとの草稿のほうがマスコミに出回って報道されたため、本当は言っていないのに言ったことになってしまった、というのが真相のようです。これが第三の間違いです。
つまり、「大河内総長は『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』と言った」という有名な語り伝えには、三つの間違いが含まれているわけです。まず「大河内総長は」という主語が違うし、目的語になっている「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」というフレーズはミルの言葉のまったく不正確な引用だし、おまけに「言った」という動詞まで事実ではなかった。というわけで、早い話がこの命題は初めから終りまで全部間違いであって、ただの一箇所も真実を含んでいないのですね。にもかかわらず、この幻のエピソードはまことしやかに語り継がれ、今日では一種の伝説にさえなっているという次第です。
さて、そこで何が言いたいかと申しますと、まず、皆さんが毎日触れている情報、特にネットに流れている雑多な情報は、大半がこの種のものであると思った方がいいということです。そうした情報の発信者たちも、別に悪意をもって虚偽を流しているわけではなく、ただ無意識のうちに伝言ゲームを反復しているだけなのだと思いますが、善意のコピペや無自覚なリツイートは時として、悪意の虚偽よりも人を迷わせます。そしてあやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。そしてその結果、本来作動しなければならないはずの批判精神が、知らず知らずのうちに機能不全に陥ってしまう。ネットの普及につれて、こうした事態が昨今ますます顕著になっているというのが、私の偽らざる実感です。
しかし、こうした悪弊は断ち切らなければなりません。あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。
今朝の本郷での卒業式では、学生代表の文学部の学生さんが、答辞の中でたいへんいいことを言っておられました。私も今朝初めて聞いたばかりですから正確には再現できませんが、おおざっぱに要約すれば、「どんな言葉にも名前が記されている。たとえ匿名の言葉であっても、それを発した人間の名前は刻印されている。しかしそれで自己規制したり沈黙したりしてはならない。私たちは自分の名前において言葉を語らなければならない」といった趣旨であったと思います。
まことにその通りで、これから皆さんが語る言葉には、常に名前が刻まれています。それは皆さんが普段名乗っているいわゆる「名前」だけでなく、東京大学という名前であり、教養学部という名前でもあります。ですから皆さんは、今後どのような道に進むにせよ、研究においても仕事においても、けっして他者の言葉をただ受動的に反復するのではなく、健全な批判精神を働かせながらあらゆる情報を疑い、検証し、吟味した上で、東京大学教養学部の卒業生としてみずからの名前を堂々と名乗り、自分だけの言葉を語っていただきたいと思います。
ところで、もう一度「豚とソクラテス」に戻りますが、私ははじめてこの言葉を聞いたとき、子ども心に、どうして「肥った豚」か「痩せたソクラテス」のどちらかでなければいけないのだろうか、と不思議でなりませんでした。どうせなら「肥ったソクラテス」になればいいじゃないか、と思ったわけです。
そこで大河内総長の式辞原稿をもう一度見てみますと、そこには例の有名なフレーズに続けて「我々は、なろうことなら肥ったソクラテスになりたいのですが」とも書かれていました。じっさい、ソクラテスであるためには必ず痩せていなければならないという道理はありませんから、この点では私もまったく同意見です。ただ、ぶくぶくと肥ったソクラテスというのもなんとなくイメージしにくいですね。本日の本郷での卒業式では、この3月末で6年間の任期を終えられる濱田総長が式辞の最後でとどめの「タフ&グローバル」を口になさいましたが、ここではその濱田総長と、半世紀前の大河内総長に最大限の敬意を表して、2人の総長の合わせ技で「タフでグローバルなソクラテスになれ」、と皆さんに申し上げておきたいと思います。
さて、かく言う私も、この3月で教養学部長の任期は終了いたします。また、それと同時に、駒場の教員としても退職いたします。いささか恥ずかしげもなく月並みな言い方をすれば、今日は皆さんの卒業式であると同時に、私自身の卒業式でもあるわけです。人生のひとつの区切りを皆さんと一緒に迎えることができたというのは、何かのご縁かもしれませんが、ともあれこの壇上から式辞を述べるのも、これが最後の機会となりますので、私は大河内総長の「痩せたソクラテス」でもなく、濱田総長の「タフでグローバル」でもなく、自分自身が本当に好きな言葉を皆さんに贈って、この式辞を終えたいと思います。
それはドイツの思想家、ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくる言葉です。
きみは、きみ自身の炎のなかで、自分を焼きつくそうと欲しなくてはならない。きみがまず灰になっていなかったら、どうしてきみは新しくなることができよう!
皆さんも、自分自身の燃えさかる炎のなかで、まずは後先考えずに、灰になるまで自分を焼きつくしてください。そしてその後で、灰の中から新しい自分を発見してください。自分を焼きつくすことができない人間は、新しく生まれ変わることもできません。私くらいの年齢になると、炎に身を投じればそのまま灰になって終わりですが、皆さんはまだまだ何度も生まれ変われるはずです。これからどのような道に進むにしても、どうぞ常に自分を燃やし続け、新しい自分と出会い続けてください。
もちろん、いま私が紹介した言葉が本当にニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくるのかどうか、必ず自分の目で確かめることもけっして忘れないように。もしかすると、これは私が仕掛けた最後の冗談なのかもしれません。
皆さんの前に、輝かしい未来が開けますように。そして皆さんが教養学部で、この駒場の地で培った教養の力、健全な批判精神に裏打ちされた教養の力が、ますます混迷の度を深めつつあるこの世界に、やがて新しい叡智の光をもたらしますように。
万感の思いを込めて、もう一度申し上げます。皆さん、卒業おめでとう。
平成二十七年三月二十五日
東京大学教養学部長 石井洋二郎
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皆さん、本日はご卒業おめでとうございます。
また、ご列席のご家族の皆様方にも、心よりお祝い申し上げます。今年度の教養学部卒業生は175名で、そのうち女性は50名、留学生が1名です。
全学の式典はすでに午前中、改装されたばかりの安田講堂で挙行されましたので、ここでは教養学部として、あらためて皆さんとともにこの日を慶びたいと思います。
東京大学の卒業式といえば、もう半世紀も前の話になりますが、東京オリンピックが開催された年である1964年の3月、当時の総長であった経済学者の大河内一男先生が語ったとされる有名な言葉が思い出されます。曰く、「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」。
当時、私はちょうど中学校にあがる年頃でしたが、この言葉は新聞やテレビでかなり大きく報道されましたので、鮮明に記憶に残っております。また、子供心に、さすが東大の総長ともなると気の利いた名言を残すものだと、感心したこともなんとなく覚えております。皆さんの中にも、どこかでこの言葉を耳にしたことのある人は少なくないでしょう。
ところが、これはある機会に一度お話ししたことがあるのですけれども、じつはこの発言をめぐっては、いろいろな間違いや誤解が積み重なっているんですね。
まず第一の間違いは、「大河内総長は」という主語にあります。というのも、これは大河内先生自身が考えついた言葉ではなく、19世紀イギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルの『功利主義論』という論文からの借用だからです。
東大の総長ともあろうものが、他人の文章を無断で剽窃したのか、と思われるかもしれませんが、もちろんそういうわけではありません。式辞の原稿を見てみますと、そこにはちゃんと、「昔J・S・ミルは『肥った豚になるよりは痩せたソクラテスになりたい』と言ったことがあります」と書かれています。「なれ」という命令ではなく「なりたい」という願望になっている点が少し違っていますが、それはともかく、ここでははっきりJ・S・ミルの名前が挙げられていますから、これは作法にのっとった正当な「引用」です。ところが、マスコミはまるでこれが大河内総長自身の言葉であるかのように報道してしまった。そして、世間もそれを信じ込んでそのまま語り継いできたというのが、実情です。
次に第二の間違いですが、これはもっと内容に関わることです。じつは、ジョン・スチュアート・ミル自身は「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」とも「なりたい」とも、全然言っていないのですね。さきほど題名を挙げた『功利主義論』の日本語訳を見てみますと、こう書いてあります。
満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。
大河内総長の言葉とはだいぶ違いますね。ちなみに、英語の原文はこうなっています。
It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.
この原文を見ると、どうやらさきほど引用した日本語訳は正確なようですから、大河内総長のほうがこれをまったく別の文章に改変してしまったとしか考えられません。たぶん漠然と記憶に残っていた言葉を、自分の言いたいことに合わせて適当にアレンジしたのでしょう。その結果、「満足した豚」は食べたいものを食べたいだけ食べるということで「肥った豚」になり、「不満足なソクラテス」は食べたいものにも安易に手を出さないということで「痩せたソクラテス」になったものと推測されます。しかしこれでは原文とまったく違ったニュアンスになりますから、ミルが語った言葉として紹介するのはさすがに問題なのではないか。下手をすると、これは「資料の恣意的な改竄」と言われても仕方がないケースです。
ところが、間違いはこれだけではないんですね。じつは、大河内総長は卒業式ではこの部分を読み飛ばしてしまって、実際には言っていないのだそうです。原稿には確かに書き込まれていたのだけれども、あとで自分の記憶違いに気づいて意図的に落としたのか、あるいは単にうっかりしただけなのか、とにかく本番では省略してしまった。ところがもとの草稿のほうがマスコミに出回って報道されたため、本当は言っていないのに言ったことになってしまった、というのが真相のようです。これが第三の間違いです。
つまり、「大河内総長は『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』と言った」という有名な語り伝えには、三つの間違いが含まれているわけです。まず「大河内総長は」という主語が違うし、目的語になっている「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」というフレーズはミルの言葉のまったく不正確な引用だし、おまけに「言った」という動詞まで事実ではなかった。というわけで、早い話がこの命題は初めから終りまで全部間違いであって、ただの一箇所も真実を含んでいないのですね。にもかかわらず、この幻のエピソードはまことしやかに語り継がれ、今日では一種の伝説にさえなっているという次第です。
さて、そこで何が言いたいかと申しますと、まず、皆さんが毎日触れている情報、特にネットに流れている雑多な情報は、大半がこの種のものであると思った方がいいということです。そうした情報の発信者たちも、別に悪意をもって虚偽を流しているわけではなく、ただ無意識のうちに伝言ゲームを反復しているだけなのだと思いますが、善意のコピペや無自覚なリツイートは時として、悪意の虚偽よりも人を迷わせます。そしてあやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。そしてその結果、本来作動しなければならないはずの批判精神が、知らず知らずのうちに機能不全に陥ってしまう。ネットの普及につれて、こうした事態が昨今ますます顕著になっているというのが、私の偽らざる実感です。
しかし、こうした悪弊は断ち切らなければなりません。あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。
今朝の本郷での卒業式では、学生代表の文学部の学生さんが、答辞の中でたいへんいいことを言っておられました。私も今朝初めて聞いたばかりですから正確には再現できませんが、おおざっぱに要約すれば、「どんな言葉にも名前が記されている。たとえ匿名の言葉であっても、それを発した人間の名前は刻印されている。しかしそれで自己規制したり沈黙したりしてはならない。私たちは自分の名前において言葉を語らなければならない」といった趣旨であったと思います。
まことにその通りで、これから皆さんが語る言葉には、常に名前が刻まれています。それは皆さんが普段名乗っているいわゆる「名前」だけでなく、東京大学という名前であり、教養学部という名前でもあります。ですから皆さんは、今後どのような道に進むにせよ、研究においても仕事においても、けっして他者の言葉をただ受動的に反復するのではなく、健全な批判精神を働かせながらあらゆる情報を疑い、検証し、吟味した上で、東京大学教養学部の卒業生としてみずからの名前を堂々と名乗り、自分だけの言葉を語っていただきたいと思います。
ところで、もう一度「豚とソクラテス」に戻りますが、私ははじめてこの言葉を聞いたとき、子ども心に、どうして「肥った豚」か「痩せたソクラテス」のどちらかでなければいけないのだろうか、と不思議でなりませんでした。どうせなら「肥ったソクラテス」になればいいじゃないか、と思ったわけです。
そこで大河内総長の式辞原稿をもう一度見てみますと、そこには例の有名なフレーズに続けて「我々は、なろうことなら肥ったソクラテスになりたいのですが」とも書かれていました。じっさい、ソクラテスであるためには必ず痩せていなければならないという道理はありませんから、この点では私もまったく同意見です。ただ、ぶくぶくと肥ったソクラテスというのもなんとなくイメージしにくいですね。本日の本郷での卒業式では、この3月末で6年間の任期を終えられる濱田総長が式辞の最後でとどめの「タフ&グローバル」を口になさいましたが、ここではその濱田総長と、半世紀前の大河内総長に最大限の敬意を表して、2人の総長の合わせ技で「タフでグローバルなソクラテスになれ」、と皆さんに申し上げておきたいと思います。
さて、かく言う私も、この3月で教養学部長の任期は終了いたします。また、それと同時に、駒場の教員としても退職いたします。いささか恥ずかしげもなく月並みな言い方をすれば、今日は皆さんの卒業式であると同時に、私自身の卒業式でもあるわけです。人生のひとつの区切りを皆さんと一緒に迎えることができたというのは、何かのご縁かもしれませんが、ともあれこの壇上から式辞を述べるのも、これが最後の機会となりますので、私は大河内総長の「痩せたソクラテス」でもなく、濱田総長の「タフでグローバル」でもなく、自分自身が本当に好きな言葉を皆さんに贈って、この式辞を終えたいと思います。
それはドイツの思想家、ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくる言葉です。
きみは、きみ自身の炎のなかで、自分を焼きつくそうと欲しなくてはならない。きみがまず灰になっていなかったら、どうしてきみは新しくなることができよう!
皆さんも、自分自身の燃えさかる炎のなかで、まずは後先考えずに、灰になるまで自分を焼きつくしてください。そしてその後で、灰の中から新しい自分を発見してください。自分を焼きつくすことができない人間は、新しく生まれ変わることもできません。私くらいの年齢になると、炎に身を投じればそのまま灰になって終わりですが、皆さんはまだまだ何度も生まれ変われるはずです。これからどのような道に進むにしても、どうぞ常に自分を燃やし続け、新しい自分と出会い続けてください。
もちろん、いま私が紹介した言葉が本当にニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくるのかどうか、必ず自分の目で確かめることもけっして忘れないように。もしかすると、これは私が仕掛けた最後の冗談なのかもしれません。
皆さんの前に、輝かしい未来が開けますように。そして皆さんが教養学部で、この駒場の地で培った教養の力、健全な批判精神に裏打ちされた教養の力が、ますます混迷の度を深めつつあるこの世界に、やがて新しい叡智の光をもたらしますように。
万感の思いを込めて、もう一度申し上げます。皆さん、卒業おめでとう。
平成二十七年三月二十五日
東京大学教養学部長 石井洋二郎