2018年06月14日

教養

東京大学教養学部長 石井洋二郎氏の卒業式の式辞があまりに素晴らしかったのでメモ兼ねて全文アップ。

-----------------------

皆さん、本日はご卒業おめでとうございます。

また、ご列席のご家族の皆様方にも、心よりお祝い申し上げます。今年度の教養学部卒業生は175名で、そのうち女性は50名、留学生が1名です。

全学の式典はすでに午前中、改装されたばかりの安田講堂で挙行されましたので、ここでは教養学部として、あらためて皆さんとともにこの日を慶びたいと思います。

東京大学の卒業式といえば、もう半世紀も前の話になりますが、東京オリンピックが開催された年である1964年の3月、当時の総長であった経済学者の大河内一男先生が語ったとされる有名な言葉が思い出されます。曰く、「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」。

当時、私はちょうど中学校にあがる年頃でしたが、この言葉は新聞やテレビでかなり大きく報道されましたので、鮮明に記憶に残っております。また、子供心に、さすが東大の総長ともなると気の利いた名言を残すものだと、感心したこともなんとなく覚えております。皆さんの中にも、どこかでこの言葉を耳にしたことのある人は少なくないでしょう。

ところが、これはある機会に一度お話ししたことがあるのですけれども、じつはこの発言をめぐっては、いろいろな間違いや誤解が積み重なっているんですね。

まず第一の間違いは、「大河内総長は」という主語にあります。というのも、これは大河内先生自身が考えついた言葉ではなく、19世紀イギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルの『功利主義論』という論文からの借用だからです。

東大の総長ともあろうものが、他人の文章を無断で剽窃したのか、と思われるかもしれませんが、もちろんそういうわけではありません。式辞の原稿を見てみますと、そこにはちゃんと、「昔J・S・ミルは『肥った豚になるよりは痩せたソクラテスになりたい』と言ったことがあります」と書かれています。「なれ」という命令ではなく「なりたい」という願望になっている点が少し違っていますが、それはともかく、ここでははっきりJ・S・ミルの名前が挙げられていますから、これは作法にのっとった正当な「引用」です。ところが、マスコミはまるでこれが大河内総長自身の言葉であるかのように報道してしまった。そして、世間もそれを信じ込んでそのまま語り継いできたというのが、実情です。

次に第二の間違いですが、これはもっと内容に関わることです。じつは、ジョン・スチュアート・ミル自身は「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」とも「なりたい」とも、全然言っていないのですね。さきほど題名を挙げた『功利主義論』の日本語訳を見てみますと、こう書いてあります。

満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。

大河内総長の言葉とはだいぶ違いますね。ちなみに、英語の原文はこうなっています。

It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.

この原文を見ると、どうやらさきほど引用した日本語訳は正確なようですから、大河内総長のほうがこれをまったく別の文章に改変してしまったとしか考えられません。たぶん漠然と記憶に残っていた言葉を、自分の言いたいことに合わせて適当にアレンジしたのでしょう。その結果、「満足した豚」は食べたいものを食べたいだけ食べるということで「肥った豚」になり、「不満足なソクラテス」は食べたいものにも安易に手を出さないということで「痩せたソクラテス」になったものと推測されます。しかしこれでは原文とまったく違ったニュアンスになりますから、ミルが語った言葉として紹介するのはさすがに問題なのではないか。下手をすると、これは「資料の恣意的な改竄」と言われても仕方がないケースです。

ところが、間違いはこれだけではないんですね。じつは、大河内総長は卒業式ではこの部分を読み飛ばしてしまって、実際には言っていないのだそうです。原稿には確かに書き込まれていたのだけれども、あとで自分の記憶違いに気づいて意図的に落としたのか、あるいは単にうっかりしただけなのか、とにかく本番では省略してしまった。ところがもとの草稿のほうがマスコミに出回って報道されたため、本当は言っていないのに言ったことになってしまった、というのが真相のようです。これが第三の間違いです。

つまり、「大河内総長は『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』と言った」という有名な語り伝えには、三つの間違いが含まれているわけです。まず「大河内総長は」という主語が違うし、目的語になっている「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」というフレーズはミルの言葉のまったく不正確な引用だし、おまけに「言った」という動詞まで事実ではなかった。というわけで、早い話がこの命題は初めから終りまで全部間違いであって、ただの一箇所も真実を含んでいないのですね。にもかかわらず、この幻のエピソードはまことしやかに語り継がれ、今日では一種の伝説にさえなっているという次第です。

さて、そこで何が言いたいかと申しますと、まず、皆さんが毎日触れている情報、特にネットに流れている雑多な情報は、大半がこの種のものであると思った方がいいということです。そうした情報の発信者たちも、別に悪意をもって虚偽を流しているわけではなく、ただ無意識のうちに伝言ゲームを反復しているだけなのだと思いますが、善意のコピペや無自覚なリツイートは時として、悪意の虚偽よりも人を迷わせます。そしてあやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。

情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。そしてその結果、本来作動しなければならないはずの批判精神が、知らず知らずのうちに機能不全に陥ってしまう。ネットの普及につれて、こうした事態が昨今ますます顕著になっているというのが、私の偽らざる実感です。

しかし、こうした悪弊は断ち切らなければなりません。あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。

今朝の本郷での卒業式では、学生代表の文学部の学生さんが、答辞の中でたいへんいいことを言っておられました。私も今朝初めて聞いたばかりですから正確には再現できませんが、おおざっぱに要約すれば、「どんな言葉にも名前が記されている。たとえ匿名の言葉であっても、それを発した人間の名前は刻印されている。しかしそれで自己規制したり沈黙したりしてはならない。私たちは自分の名前において言葉を語らなければならない」といった趣旨であったと思います。

まことにその通りで、これから皆さんが語る言葉には、常に名前が刻まれています。それは皆さんが普段名乗っているいわゆる「名前」だけでなく、東京大学という名前であり、教養学部という名前でもあります。ですから皆さんは、今後どのような道に進むにせよ、研究においても仕事においても、けっして他者の言葉をただ受動的に反復するのではなく、健全な批判精神を働かせながらあらゆる情報を疑い、検証し、吟味した上で、東京大学教養学部の卒業生としてみずからの名前を堂々と名乗り、自分だけの言葉を語っていただきたいと思います。

ところで、もう一度「豚とソクラテス」に戻りますが、私ははじめてこの言葉を聞いたとき、子ども心に、どうして「肥った豚」か「痩せたソクラテス」のどちらかでなければいけないのだろうか、と不思議でなりませんでした。どうせなら「肥ったソクラテス」になればいいじゃないか、と思ったわけです。

そこで大河内総長の式辞原稿をもう一度見てみますと、そこには例の有名なフレーズに続けて「我々は、なろうことなら肥ったソクラテスになりたいのですが」とも書かれていました。じっさい、ソクラテスであるためには必ず痩せていなければならないという道理はありませんから、この点では私もまったく同意見です。ただ、ぶくぶくと肥ったソクラテスというのもなんとなくイメージしにくいですね。本日の本郷での卒業式では、この3月末で6年間の任期を終えられる濱田総長が式辞の最後でとどめの「タフ&グローバル」を口になさいましたが、ここではその濱田総長と、半世紀前の大河内総長に最大限の敬意を表して、2人の総長の合わせ技で「タフでグローバルなソクラテスになれ」、と皆さんに申し上げておきたいと思います。

さて、かく言う私も、この3月で教養学部長の任期は終了いたします。また、それと同時に、駒場の教員としても退職いたします。いささか恥ずかしげもなく月並みな言い方をすれば、今日は皆さんの卒業式であると同時に、私自身の卒業式でもあるわけです。人生のひとつの区切りを皆さんと一緒に迎えることができたというのは、何かのご縁かもしれませんが、ともあれこの壇上から式辞を述べるのも、これが最後の機会となりますので、私は大河内総長の「痩せたソクラテス」でもなく、濱田総長の「タフでグローバル」でもなく、自分自身が本当に好きな言葉を皆さんに贈って、この式辞を終えたいと思います。

それはドイツの思想家、ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくる言葉です。

きみは、きみ自身の炎のなかで、自分を焼きつくそうと欲しなくてはならない。きみがまず灰になっていなかったら、どうしてきみは新しくなることができよう!

皆さんも、自分自身の燃えさかる炎のなかで、まずは後先考えずに、灰になるまで自分を焼きつくしてください。そしてその後で、灰の中から新しい自分を発見してください。自分を焼きつくすことができない人間は、新しく生まれ変わることもできません。私くらいの年齢になると、炎に身を投じればそのまま灰になって終わりですが、皆さんはまだまだ何度も生まれ変われるはずです。これからどのような道に進むにしても、どうぞ常に自分を燃やし続け、新しい自分と出会い続けてください。

もちろん、いま私が紹介した言葉が本当にニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくるのかどうか、必ず自分の目で確かめることもけっして忘れないように。もしかすると、これは私が仕掛けた最後の冗談なのかもしれません。

皆さんの前に、輝かしい未来が開けますように。そして皆さんが教養学部で、この駒場の地で培った教養の力、健全な批判精神に裏打ちされた教養の力が、ますます混迷の度を深めつつあるこの世界に、やがて新しい叡智の光をもたらしますように。

万感の思いを込めて、もう一度申し上げます。皆さん、卒業おめでとう。

平成二十七年三月二十五日

東京大学教養学部長 石井洋二郎
  


Posted by こもれび屋  at 08:25Comments(1)

2018年04月11日



兵庫県で16歳の時から25年間檻の中に監禁されていた男性が発見され父親が逮捕されたという事件。


こういうガチなやつはいたたまれなくて心情的にはあまり取り上げたくないのですけれど、日本の精神科医療の歴史を学んだ身としては言っておかなくてはとも思います。


もちろん父親に罪があることも確かなのですが、戦後の日本の精神科医療はあまりに杜撰だった。


精神科病院に入院をすることが、死ぬよりも恐ろしいことだと思われていた時代が確かにあったのです。


妄想に囚われて暴れる息子を閉じ込める


それは近所で噂をされたくないといった保身もあったかもしれない。

けれど息子をそんな場所にやりたくない、という情もそこにはあったのかもしれない、と、そう思いたいのです。


もちろん25年にわたり一人の人間を腰が曲がり、目も見えなくなるほどの環境に監禁した父親の罪は重い。

けれど、社会の側にそうさせてしまった遠因はなかったのか?



もしあったのならば、それを取り除いていくことがこんな悲劇をもう産まないために必要なことだと思うのです。



社会の理解は個人の理解に繋がっています。


こころを病むということ


それに対する理解があれば、知識があれば、起きなかったはずだ


個人の理解は社会の理解に繋がっています。



知らなくちゃ。

そう思って今日も書き連ねます。
  


Posted by こもれび屋  at 08:44Comments(0)

2018年04月10日

龍脈



龍脈
地中を流れる気のルートのこと。大地の気は山の尾根伝いに流れると考えられており、その流れが龍のように見えることから「龍脈」と呼ばれる。風水では、この「龍脈」の気が噴き出すポイントである「龍穴」に住むと、一族は永きに渡って繁栄できると考えられている。 (wikiより)




風水の世界ではわりとメジャーな考え方である龍脈や龍穴。

今風に言うなら「パワースポット」と言い替えてもいいでしょう。


常識ではなかなか考えられないことが立て続けに起こる場所


「あちら側の世界」との境が薄くなっているかのような、そんな特異点とでも言うべき場所は確かに存在するのです。





2人の男が相次いで女子トイレから発見された というニュース。

しかも一人は女装公務員。


女子トイレに入った男が捕まる というのがどの程度の確率で起こり得る事件なのかは定かではないですが、相当のレアケースだと思うのですね。(願望)



そんな起こり得ないことが起きてしまった時

人はそれを神の御業か悪魔の仕業か、はたまたその場所がそういった事件を引き寄せたのかと考えるわけです。



「女装が好きで、女装しているときにもよおしてしまい女子トイレに入ってしまった」
と供述している57歳公務員。


今日からこのトイレはパワースポット認定ですね。
  


Posted by こもれび屋  at 08:26Comments(0)痛ましい事件

2018年04月04日

(再掲)イマジン

『最悪の場合でも、俺たちには妄想があるから』
リリー・フランキーのなんか小説の一節




「人はさまざまな手段で現実に抵抗する。大抵は金で。幸運な者は美や力で。何も持たない者は妄想で現実に抵抗する。」
これもとある小説の一節。

とはいえ妄想てしんどいものだ。

いや、正確には妄想にしか逃げ場のない現実てしんどいものだ。


人は誰でも自分の中に自分らしさの核のようなものを持っていて、それに近づこうと、近づきたいと、日々生きてるもんだ。近づければ近づけただけ楽になれるんだけれど、実際なかなかうまくいかない。

そしてその「自分がこうありたい姿」からかけ離れた自分を見ることは辛い。しんどい。
かといって、どんだけしんどくたって、現実からまるまる逃げ出すことはなかなか難しいもんだ。腹も減るし、のども渇く。家賃も電気代もかかる。気が付きゃ歳も取っている。他人は否応なしに自分に評価をつけてくるし、そのレッテルをはねのけられるほどの確信だなんて持てない。
キセキを信じられるほど世間知らずでもなければ現実を理想に近づけられるほど強くもない。


『最悪の場合でも、俺たちには妄想があるから』
って、言ってもね。まだまだ少しでも逃げられるなら最悪じゃないよ。


本当に「最悪の場合」なのは、妄想を逃げ場に出来ないこと、それと妄想を自分で管理出来ないこと。

前者は現実の痛みをもろにひっかぶるし、後者は妄想に振り回される。


例えば鬱病にしろ、統合失調症にしろ、楽しい妄想とは無縁な状態だ。

ジョン・レノンがイマジンで

「想像してごらん、この世には天国も地獄もないって」

と歌っているけれど、天国や地獄に思いを馳せることもできず、今この場がまぎれもなく苦しい。

そんな人になんと声をかけたらいいのだろう。
そんな人のために何ができるだろう。


博愛とか職責とかだけでできることなんてそんなに多くはないし、
かける言葉に正解は、きっと、ない。

けれどせめて、味方でいよう。


そう思う。  


Posted by こもれび屋  at 08:30Comments(0)

2018年04月02日

だって食べたかったから



(写真はイメージです)


自分が書いた記事を読み返してみて




全裸の記事が多いなぁ……




と思った今日この頃。




ええ。今日もです。





『服なかった』と全裸で買い物 23歳男を逮捕

・豊川署は22日までに、豊川市御油町美世賜の山口組系組事務所に住む組員で無職長屋伸二容疑者(23)を公然わいせつの疑いで逮捕した。
調べでは長屋容疑者は21日午後5時ごろ、組事務所から3軒離れた雑貨店を全裸で徘徊(はいかい)した疑い。その際、同店で100円のチョコレートを購入した。
店主や近所の住民らによる110番通報で駆け付けた署員が組事務所内に戻っていた容疑者を取り押さえた。

調べに対して長屋容疑者は「着ていた服を洗濯したので服がなかったけど、チョコレートが食べたくなった」と供述している。雑貨店の女性店員は「(全裸に)びっくりしたけど、チョコレートを売ってしまった」と話しているという。




愛知県は豊川市のニュース。



身近でこんな事件がおきるとゾクゾクしますね。

  


Posted by こもれび屋  at 08:15Comments(0)痛ましい事件

2018年03月30日

紳士



最近の世の中は世知辛いなんて言われますが、おちおち人助けもしていられない、というニュース。





7月9日午後4時00分ころ、利根郡みなかみ町藤原地内の川辺で、友達数人と水遊びをしていた小学生女児が足を滑らせ転んだところ、女児に対し手を伸ばしたという事案がありました。

■不審者の特徴
30歳くらい、身長170センチメートルほど、黒いゴーグルに全裸の男

不審者を見つけた時は、その特徴を覚えて安全な場所に避難し、すぐに警察に通報して下さい。

ぐんま安全安心情報





30歳くらい、身長170センチメートルほど、黒いゴーグルに全裸の男


黒いゴーグルに全裸の男



…全裸?




いや、服着ろよ!!!
せっかくの美談が台無しだよ!!!






まぁ、あったかくなってきましたしね。  


Posted by こもれび屋  at 08:15Comments(0)痛ましい事件

2018年03月29日

(再掲)悲しき喝采




人と接することがある以上、どんな仕事においても心にないことを言わなくてはならない瞬間というものはあるかと思う。


特にSST

Social Skills Training の略で、「社会生活技能訓練」や「生活技能訓練」などと呼ばれるもの。
主に対人関係を中心とする社会生活技能、文字通り社会で生活するための技術を身につけるということが目的のトレーニングなんだ。

で、段階にもよるのだけれどその大きな目的のひとつとして「人に受け入れられる事に慣れていく」ってことがあるのね。

それがさ

例えば 椅子にきちんと座れた とか ちゃんと重さを測れた とか程度のことができただけで・・・・いや、むしろちゃんとできていなかったとしても

「わぁーーー!!凄い凄い。よくできましたぁ(ぱちぱちぱちぱち)」

てな感じで誉め讃えたりするわけなんだ。


すごい!  だなんて思えんよ。

「赤ちゃんが初めて立つ事が出来た」

とかじゃなくって、いい歳した大人に対してそんなこと誉め讃えるのって、逆に失礼なんじゃないかとな。
そりゃ思うよ。

けれど、同時に

そうされることが必要な程に、他人に、社会に、受け入れられずにこれまで生きてきた

一見茶番に見える喝采を、受容を、それでも求めているほどに怯えきって生きてきた人がいることも事実で


心無き喝采。それは覚悟なき優しさにも似て、どことなく卑怯なものの気がしてしまうけれど、そんな目を閉じた時にしか見えないような小さな灯りを必要としている人の前で、黙ってしまう事は、正直だとしても、間違っている。


だから、建前でも追従でもなく、立場だけでもなく
こころから、喝采をあげようと思う。


こころにもない、喝采を。
  


Posted by こもれび屋  at 08:23Comments(0)

2018年03月27日

(再掲)絶望的な希望

古くからある精神病院に研修に行ったことがある。もう10年も前のことだ。



小さな小学校の校舎ほど、全40床ほどの閉鎖病棟。

頑健な男性看護師が中にいる別の男性看護師と連絡を取って、錠のかかった扉を開ける。


そこにはタバコと胃液が混じったような臭いが充満していた。


テレビは全部屋合わせて1台、タバコは1日3本、看護師がベルを鳴らすとぞろぞろと6人部屋から食事に出てくる。

風呂は週2回、就寝は夜8時、インターネットはもちろんケーブルで首を吊られると困るという理由から、あらゆる電子機器は禁止されていた。


夕方研修が終わり、閉鎖病棟にある唯一の出入り口から外に出る。

羨ましそうにうらめしそうに遠巻きに見るのは最近入院した人たちだ。

10年、20年と入院している人たちはもはや退院することすら諦めているかのようだった。


長く入院をしているうちに、家族は「彼らがいない生活」に慣れていく。

病状が安定しても帰る場所が、既にない。



「もう電話してこないでください」


電話ごしにかつての家族の声を聴いた。




結局研修が終わるまでの2週間、その小さな病棟に見舞いにくる者は誰もいなかった。

100坪もないだろう鉄格子入りの窓に囲まれたその建物は、まるで大きな棺のように見えた。


10代でここに入院して40年になるという彼が言った。



「ここで死にたい」



それ以前もそれ以降も、あれほど絶望的な希望を聞いたことはない。
  


Posted by こもれび屋  at 08:26Comments(0)

2018年03月26日

わびさび



日本には侘び寂びを愛する文化というものが根付いている。


それは原色よりも枯淡を愛する文化であり、あまりはっきりと物事を言葉にせずに、雰囲気で察する事をよしとする文化でもある。

その曖昧さがわかりづらさと捉えられてしまうようで、外国人が「日本人の考えていることはわからん!」と言うという話は一昔前にはよく聞かれた。


まぁ昨今では経済もグローバル化され、ビジネスシーンにおいてはむしろ自分の考えをはっきりと主張する事がよしとされるようになっているが、あくまで商売は商売。

生活の中ではまだまだ日本には「侘び寂び」の文化が密かに残っているのです。



とまぁこんなことを言うと、「今の日本のどこに侘び寂びが残っているんだ!」と憤る方もいるかもしれない。

確かに私自身そう思ってしまう時がないわけじゃない。電車に乗れば鏡を見ながら化粧に勤しむ女性を見かけるし、時にはおぱんつ全開で座ってる女子高生すら見かける。


もう「隠せ!」と。「恥じらいながら隠せ!」と。「むしろ恥じらいながら見せろ!」とか言いたくもなるわけなんですが、とにかく皆自分の欲望を「隠す」ことを忘れてるかのようにも思えてしまうのです。
「お前も隠せ!」とかいうご意見は本日受け付けておりません。)



さて、この「隠す」という行為は非常に重要な意味を持っていて、隠されるからこそドキドキする。隠されるからこそ奥ゆかしい、隠されるからこそ知りたくなる。

遠い昔、ヘアヌード写真集が解禁となった時、その代名詞ともなった宮沢りえの「サンタフェ」て写真集があったけれど、あれなんてあまりに堂々と毛が撮られてたもんだから、もーエロくもなんともなかった。駄作。カネ返せ。


と一例を出すまでもなく、物事はなにもかにも全部見せればいいってもんじゃない。隠匿の美、とでも言うべき「隠す」からこその素晴らしさ、というものも確かに存在する。


伝えたいことをそのまま言葉にせずに、あえて婉曲的な言葉を用いる。あえて情報を不完全なものにするからこそうまくいく。それこそが日本的侘び寂び文化の特色であり、その素晴らしさなのです。






そんなことに気が付いたのは、とある日の夜の事でした。




その日は翌日の仕事に備えてビジネスホテルなんぞに泊まることになったんですが、あーゆうホテルってばどこも似たようなつくりじゃないですか。

狭い部屋に机とベッド、ちっこいテレビと冷蔵庫にユニットバス、パックのお茶と聖書・・・。
もうびっくりするくらいどこからどこまでも一緒なもんで、着いて2分でやることがなくなった。

しょーがないからテレビでも見るかと目をやると、そこに一枚の番組表が。

その小さな紙きれの中に、現在の日本で失われつつあるわびさびが、確かに残っていたのです。





【団地妻 ア〇ル中〇し】
【パ〇パンスジッ娘 6人ロ〇ロ〇祭!!】





そう。それはいわゆるアダルトチャンネル専用の番組表でした。

本来ならそこには男の本能に訴えかけるタイトルが並んでいるわけなのですが、侘び寂びを知る者はそんな無粋な事はいたしません。なんとその番組名のほとんどにが混ざっているのです。


がなければただの下らないAVタイトル。そこにという奥ゆかしさを込めることで途端にそこに侘び寂びが産まれてくるのです。


上に挙げた2タイトルも、普通に考えれば「ナ」であり「出」であり「イ」であり「リ」なんでしょうが、それをあえて確定させないことでそこに(ひょっとしたら・・・)という揺らぎが生まれる。その揺らぎが興味を呼び、味わいを産むわけなのです。



【ビ〇リーヒルズ SEX白書】


これも素晴らしい。


「隠れてねーじゃねーか!!」



と言う方もいるやもしれません。
確かにこのタイトル、一見すると肝心の「S〇X」が隠れていません。しかしこれはあえてそうしているのです。一見隠す必要のない「ビバ〇ーヒルズ」、そこだけにあえて伏字を施す事により、いわば「頭隠して尻隠さず」な風情を醸し出しているのです。


もう一度よく見てみましょう。声に出して言ってみましょう。ベッドの上で恥じらいのあまり両手で顔を覆った女子〇生が浮かんでくるかのようではありませんか。


【念願の〇〇になった!産婦人科医編】


これとかもう既にAVかどうかすら定かではないですからね。
(念願の何に?何になったんだ?オイ!?)と別の意味でどきどきしてしまいます。



【三十路~最高〇2歳まで!!淫欲熟女特大号】


これもむしろホラーに近いですね。〇に入るのは5なのか?6なのか?ま、まさか8なのか!?9なのか!!?怖い・・・・・よかった・・・2桁でホントよかった。




【友達の〇親を8件連続やりまくる俺!】


これなんかもうこっちに対する挑戦状ですからね。少なくとも「母親」なのか「父親」なのかくらいははっきりさせて欲しい!
はっ!ひょっとして・・・「両親」?



とまぁこのように自由に想像できる余地がある、ってことは大切だと思うんですよね。


なんでもかんでもハッキリさせりゃいいってもんじゃない。
裏ビデオよりモザイクがいいって時もあるじゃないか!
いや、想像力を忘れないためにもむしろモザイクを尊ぶべきだ!!




そんなことを考えながら眠りに就くのでした。


うん。侘び寂び。
  


Posted by こもれび屋  at 08:50Comments(0)井戸端会議

2018年03月23日

意思決定支援



障がい福祉になじみのない方はご存じないかと思うのですが、「相談支援員」という職種があります。


例えば介護サービスを受ける時、どんなことをどのように使えば今の困りごとを解消できるか?そもそもどんなサービスがあるのかがわからない方は多いわけです。

そこでどんな組み合わせでサービスを受ければいいのか、どの程度費用がかかるのか、などをケアマネージャーというプロが教えてくれて、ケアプランと呼ばれる計画も組んでくれます。


相談支援員というのはこのケアマネージャーの障がい分野版なんですね。


障がいを持った方がどういった福祉サービスを組み合わせて使用してそれによってどのような生活を目指していくのか



それを本人と一緒に考えて「相談支援計画(サービス等利用計画)」と呼ばれる計画を立てていきます。


ケアプランがないと介護保険サービスが利用できないように、相談支援計画がないと基本障害福祉サービスは利用できない仕組みになっています。(一応セルフプランと呼ばれる計画を自分で立てることも可能です)



さて、先日そんな相談支援員の研修、具体的には「意思決定支援」について学ぶ研修に行かせていただきました。


「意思決定支援」というのは重度の知的障がいの方など、自分の意思を他の人に伝えることが困難な方に対してどのような方法で本人の意思を推し量り支援をしていくのか、ということです。


ポイントは

① 意思能力
自分の好き嫌い(意思)を示すことができるか

② 行為能力
ひとりでその行為の結果を判断して行うことができるかどうか

と、問題を分けて考えることです。



「意思」は全ての人にある。
けれど「暴れる」「叫ぶ」といった形でしかその意思を表現するすべを知らなかったり、自分の殻に閉じこもったり人の顔色をうかがいすぎてその意思を示すことができない状態ではないか。

そしてそういった意思能力と別に「欲しいから」と全財産で羽毛布団を買ってしまってはいないか、とか、食費を切り詰めてまで異性に貢いでいないか、といった「行為」(判断)に対する支援が必要なケースもありえます。



いずれにせよ(この人は自分で判断できないから)と、支援をする側が決めてしまっていないか?

という視点は常に持ち続ける必要があります。




例えば「施設に入れるというような、本人の意思を顧みもしない言いざまを、支援をする側がしてしまってはいないか?



「施設に入れる」

なんて、支援者が言っていい言葉ではありません。

「こういった施設もあります」

といった提案なら言ってもよい。





意思を表現できなくても意思はある。

そしてその意思に最大限配慮をしつつ本人の利益を考える


それが支援者に求められる姿勢というものだと思います。  


Posted by こもれび屋  at 08:52Comments(0)福祉