2018年01月31日
カルボナーラの作り方
テレビでカルボナーラの作り方をやっていた。
なんでも主婦の95%が入れている「牛乳」とか「生クリーム」はカルボナーラには不要だというのだ。
本当かよ…と思いつつもやってみたらすっごく美味しいでやんの。
なので作り方メモっとくっす。
① 麺を茹でる
2mmくらいの太めの麺が合うそうな。1Lあたり小さじ4杯くらい入れて麺に塩味を移します。
② ベーコンを刻む
燻されたベーコンの香りはほんとのカルボナーラには邪魔(ほんとは豚の塩漬け使うんだって)なので、香りが気にならないように幅5mmほどに細かく切ります。
③ 刻んだベーコンを炒める
オリーブオイルを大匙2くらい入れてベーコン炒めます。チューブのニンニクを2cmくらい入れて一緒に香りづけします。カルボナーラにニンニク!?って思ったけれど、牛乳とか入れないで作るならありな味に仕上がります。
④ たまごと粉チーズを用意する
炒めたベーコンをボールにあけて、たっぷり粉チーズ(大匙3~4くらい)で壁を作ってたまごを割りいれます。ちょっとわかりづらいけれど、要はこの時点では混ぜずに1つのボールに入れておけってことですね。ここで粗挽きの黒こしょうもたっぷりと振り入れておきます。
⑤ 茹であがった麺をざるにあける
アルデンテは芯に髪の毛一本分残った状態を言いますが、この先もう加熱しないのできっちりちょうど中まで火が通るだけ茹でましょう。
⑥ 麺をボールにあける
麺があっつあつのうちに④で用意したボールの具材にふたをするような感じで乗せちゃいます。乗せたらそのまま15秒!たまごやチーズ、ベーコンが蒸されるイメージで!
⑦ 麺をかきまぜる
たまごを全体にからめるような感じで混ぜ合わせて完成です。とろっとしたたまごそのものがクリーミーになるイメージで。牛乳を使ったカルボナーラと比べると別物の濃厚な味わいに仕上がります。
とりあえずその場にいた嫁に食べさせたら
「下の子がたまごアレルギーなのになんでカルボナーラなんて作ってんの?」
と、ミートソースも作らされました。
2018年01月30日
やさしさの味
心理学の実験で「taste of kindness(やさしさの味)」というものがあります。
これは同じお菓子をもらった時でも「あなたのために選びました」と言われて渡されたお菓子のほうが、ただ渡されたお菓子よりも美味しく、甘く感じる、という実験で、人の感情が人の知覚に影響を与えることを示しています。
更には「死ね」と言われて与えられた電気ショックの方がより痛みを感じる
とか
そりゃそうだ!
と思いつつも普段意識しないことに気づきを得られる。
それが心理学のいいところかもしれません。
「自分の気持ちを伝えるということは、相手の感覚そのものを変えてしまうほどの働きかけなのだ」
ということを、告白とかする人は念頭においてすると良いかと思います。
まぁマイナスに変えてしまう可能性も重々ありますけどね。
2018年01月29日
パンの気持ち
「役割を演じる」ことをロールプレイ、といいます。
相手の気持ちをより理解できるようになるために、相手の立場を想像する(これをマインドリーディングといいます)ことはよい訓練になるのですね。
仕事柄研修を担当したりすることもあるのですが、このロールプレイを取り入れて行うことも多いです。
「大切な書類をなくした部下を叱ってみてください」みたいなのですね。
こうすることで
上司に叱られる部下の気持ち や
上司がどんな気持ちで部下に接しているのか
といった相手の立場や心情を学ぶ助けになるわけですね。
子供がやる「ごっこあそび」はこのロールプレイの一種であり、社会性を学ぶのに役立つそうで、常日頃から推奨していたのですが
昨日息子に
「じゃあパパはカレーパンね」
と役割を与えられました。
体にカレーが詰まっているってどんな気持ちなんだろう……
パン粉をつけて揚げられるのってどんな気持ちなんだろう……
こうした他者理解が支援に役立つことを願っています。
2018年01月26日
信仰と文化
僧侶は生き方なのか、職業なのか
という記事。
坊主丸儲け、なんて言葉があるが、実際檀家制度は確実に昭和の時代から比べても廃れてしまっているわけで…
一部の大きなお寺以外はなかなか厳しいものがあるのかもしれないなぁと思う。
でも一方で宗教法人は宗教にかかわる事業は非課税で、それを使って私腹を肥やす坊主もまたいるわけで、外車に乗る坊主やキャバクラで豪遊する坊主の話なんかを見聞きするとやっぱり(ええかげんにせぇよ)と思ってしまう。
そもそも文化の継承ってどこまで公的に支援をすべきなんだろう。
相撲業界の不祥事が相次いでいるけれど、あれだって公益財団法人なわけで税金が圧倒的に優遇されているわけで、補助金だって入っているわけで、歌舞伎とか能とかも、確かに文化として大切という意見もわかるのだけれど、同時に
守られなければ維持できないのってそれって文化なの?
とも思うのだ。
本当に文化なら、自然と人も金も集まって発展していくのではなかろうか。
え?
お前んとこだって補助金で運営してるだろ!って?
まぁ福祉は流行り廃りがあってはいけないと思いますのでそこはご勘弁を。
2018年01月25日
飲むたわし
ミドリムシのサプリのキャッチコピーで「飲むたわし」というものがあった。
なかなかキャッチーで良いコピーではないか。
と思ったのだけれど、そういやうちも似たコピー出してるわ。
(PDF: 1306.12KB)
「飲む福祉」
というコピーで自販機事業、展開中です。
設置希望の方、個人様でも企業さまでもOK!
福祉にご賛同いただける方、ご連絡お待ちしております。
なかなかキャッチーで良いコピーではないか。
と思ったのだけれど、そういやうちも似たコピー出してるわ。
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2018年01月24日
介護度
介護認定「格下げで報奨金」で介護地獄 というニュース。
介護保険制度改革が待ったなし、ということはよく知られていますが、その対策のひとつとして介護度が改善された時にその自治体や支援側にインセンティブをつけるという方向性で今制度改革が進んでいます。
一見介護度が改善すれば、本人ももちろん介護者も楽になり、介護費用も安くなるわけですから制度の維持という側面からもありがたい、といいことづくめのようですが、果たしてそううまくいくのかどうか
そこには客観的に介護度を判定することの難しさもあって、インセンティブをつけることにより実際の介護の必要性が変わっていないのに「介護度だけが下げられてしまう」という危険をはらんでいます。
うちの父親もこのたび介護度(1ですが)認定を受けました。
まぁ自力で歩けているし、要支援どまりかな、と思っていたので要介護が取れただけでありがたいのですが、今後そういった認定や更新が厳しくなっていくことが予想されますね。
2000年に始まった介護保険制度も早18年。
制度としては非常によくできていると思います。
今後も社会保障として機能していくためにやむをえないとはいえ、あまり理不尽なことのないようにしてほしいですね。
2018年01月19日
マウント
前回書いた記事、人はなぜ加害者への厳罰を求めるのか、について帰り道すがら考えた。
「エラー管理」と「非人間化」確かに一見この二つで説明はつく。
特にエラー管理。
加害者には近くに居てほしくない。もし本当に加害者だったら怖いから厳罰を課して自分から遠ざけたいという気持ちも理解できる。
しかし海外の事件など、自分に被害がかかる可能性のない事件に対しても、厳罰を求める傾向はある。
対象の危険度を大きく見積もるにしても攻撃的になる度合いが強すぎるように感じるのだ。
加害者への厳罰を求める気持ち
そこにはエラー管理と非人間化に加えてもう2つの意識が働いていると思う。
すなわちマウントと防衛機制である。
人より自分は優れていると思いたい気持ち、相手を打ち負かしたい、言い負かしたいという気持ち、そういった「相手よりも上に立ちたいという気持ち」をマウントと言うけれど、相手を非難する時にはそういった気持ちが混じっていないだろうか。
もしくは自分が傷ついてしまったときにそれに対応するための行動や心の動きのことを防衛機制というのだけれど、自分の中の不満やいら立ちをぶつける相手を探していないだろうか。
「加害者という存在」はそういった「自分は正しい」と主張をするために打ち負かす相手としては理想的な「悪」であるわけで、攻撃しても自分のこころが傷つかない存在なわけだ。
エラー管理
非人間化
マウント
防衛機制
理性的な判断を妨げるものは沢山あるんだ、ということは常に頭に入れておきたいと思う。
2018年01月18日
人はなぜ加害者への厳罰を求めるのか
心理学ミュージアム というサイトがある。
心理学的な知識をわかりやすくなじみやすく解説している素敵サイトなのだが、その中の「人はなぜ加害者への厳罰を求めるのか」という記事がわかりやすかったのでご紹介。
それによると、人がさほどよく知っているわけでもない加害者をことさらに厳しく罰したいと思う気持ちの裏には
①エラー管理
②非人間化
という二つの判断があるとのこと。
特にこの「非人間化」という過程は差別や偏見のもとになっている考え方なので、ご一読いただきたい。
心理学ってクソだな。と思うこともあるけれど、同時に感情的にならずに客観的な判断を常に下すためには自分の感情込のこころの動きを理解して理性的な行動をとれるようにしなくてはならないわけで、その助けとしてやっぱり必要な学問なんだなぁと思う。
2018年01月17日
笑いとタブー
ホーキング青山という「障害者芸人」が「笑いとタブー」「笑いと差別」をどう考えるかについて語ったこちらの記事。
『バリバラ』は、障害者の思いを改めて世間(の一部)に届けたという意味で一定の意義はあるのだろうが、一方でそういう番組が作られ、『刺激的』『タブーを破った』と評価される状況にはどうしても違和感を抱いてしまう。だって、もうそんなタブー、ずっと私は破ってきたし、他にもそういう人は数多くいた。それでも常に、障害者を扱うことそのものが『タブーを破った』扱いになっている。どこか変なのだ。
何度も何度も、私やいろいろな人が『タブー』を破る。そのたびに、世間も『なるほど』と言う。
それからしばらくすると、また何もなかったかのように『タブー』が破られる。
あれ、その件、この前も話したよな? こっちはそう思うのだけれども、世間は気にせずに『タブーを破った』と評価する。そんな状況がずっと続いているのではないか。
『バリバラ』がスタートしたのは、2012年だ。それからずーっとタブーを破っているのか。タブーって一体何枚あるのかね、と嫌味の一つも言いたくなるではないか
と自著の中で語っている車いすのホーキング氏。
「タブーって一体何枚あるのかね」にはクスリときたし、もちろんタブーを破ってきたことを批判するつもりはないのだけれど、正直世間の感覚とのズレを感じずにはいられない。
「バリバラ」ひとつとってもどの程度知られているというのか。障がい者施設に勤めている職員ですら、知らない者は何人もいる。1個人が、ましてやホーキング氏程度の知名度の人間がたかだか数年タブーを破り続けただけで世間が変わらないと嘆くには早すぎるのではないかと思うのだ。
ウーマンラッシュアワーもそうなのだけれど、こと「お笑い」という職種では、笑かす相手に「必死さ」が伝わってはいけないと思うのだ。
ツイッターで中指立てた写真をアップしたり、強い言葉で煽ったり
持論に自信を持つのはいい。仕事を必死にやることだって、当然だ。
けれど、「笑える必死さ」なんてものがもしあったらそれはやっぱり嘲笑でしかなくって、お笑い芸人を名乗るのならそんな「必死さ」で勝負をするのはやめてほしい。
人をあざけったりしたくはないもんね。
『バリバラ』は、障害者の思いを改めて世間(の一部)に届けたという意味で一定の意義はあるのだろうが、一方でそういう番組が作られ、『刺激的』『タブーを破った』と評価される状況にはどうしても違和感を抱いてしまう。だって、もうそんなタブー、ずっと私は破ってきたし、他にもそういう人は数多くいた。それでも常に、障害者を扱うことそのものが『タブーを破った』扱いになっている。どこか変なのだ。
何度も何度も、私やいろいろな人が『タブー』を破る。そのたびに、世間も『なるほど』と言う。
それからしばらくすると、また何もなかったかのように『タブー』が破られる。
あれ、その件、この前も話したよな? こっちはそう思うのだけれども、世間は気にせずに『タブーを破った』と評価する。そんな状況がずっと続いているのではないか。
『バリバラ』がスタートしたのは、2012年だ。それからずーっとタブーを破っているのか。タブーって一体何枚あるのかね、と嫌味の一つも言いたくなるではないか
と自著の中で語っている車いすのホーキング氏。
「タブーって一体何枚あるのかね」にはクスリときたし、もちろんタブーを破ってきたことを批判するつもりはないのだけれど、正直世間の感覚とのズレを感じずにはいられない。
「バリバラ」ひとつとってもどの程度知られているというのか。障がい者施設に勤めている職員ですら、知らない者は何人もいる。1個人が、ましてやホーキング氏程度の知名度の人間がたかだか数年タブーを破り続けただけで世間が変わらないと嘆くには早すぎるのではないかと思うのだ。
ウーマンラッシュアワーもそうなのだけれど、こと「お笑い」という職種では、笑かす相手に「必死さ」が伝わってはいけないと思うのだ。
ツイッターで中指立てた写真をアップしたり、強い言葉で煽ったり
持論に自信を持つのはいい。仕事を必死にやることだって、当然だ。
けれど、「笑える必死さ」なんてものがもしあったらそれはやっぱり嘲笑でしかなくって、お笑い芸人を名乗るのならそんな「必死さ」で勝負をするのはやめてほしい。
人をあざけったりしたくはないもんね。
2018年01月16日
女性です
世界には痛ましい事件があふれていて日々心を痛めているのですが、またしても悲しい事件が起きてしまいました。
50歳の男性が女装をして女湯に入って御用になったという事件。
180cmの巨漢で筋骨隆々でありながら、警察に問いただされて「女性です。女性です」と言い続けたというこの男性。
そこまでして覗きたかったのか……
と、一見性欲にかられた犯行のように思えるのですが、、同じ事件をとりあげた東スポの記事を読んでみると、そんな単純な事件ではないのかもしれません。
せっかく?危険を冒してまで女湯に侵入したにもかかわらず、女性をあまり見ずに入浴。8年前に侵入を試みた際にも「男湯は汚い。女湯の方がやすらぐ」と言っていたそうで、これは記事にある通り、本当に「女性になりたかった」のだという可能性も捨てきれません。
個人的には「女性です。女性です」が刺さりました。
「女性です」と連呼しながらも、警官に「確認」を求められるとしゅんとして観念してしまう。
どこからどう見ても男にしか見えない容姿でありながら、避けようのない現実を突きつけられるまではひたすらに「女性です」と繰り返す。
それはその場を切り抜けるためのウソというよりは、まるで「そうありたい」と願う乙女の祈りのようだとも思えるのです。
LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの頭文字を取ったもので、性的少数者を指す言葉)もだいぶ認知されてきましたが、混浴にするわけにもいきませんからね。